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摂州大坂画版(寛延改正・1749年頃)

淀川の左岸に海老江村とある。

『福島区史』より

だんじりの歴史

 

だんじりは、一般的には「地車」と書かれます。大阪市内の地車は天神祭を発祥として江戸中期から末期に盛んになってきたと言われており、どの地車のお囃子もほぼ同じリズムを奏でます。大太鼓、小太鼓、鉦(かね)の3人によるお囃子のリズムに合わせて、大勢の人が綱を引き、あるいは担い棒という、地車の四方を囲む直径20cm程の丸棒を肩で押して、町内を巡行します。

海老江八坂神社には東西南北の四町があり、東、西、南の三町が地車を、北之町が枕太鼓を所有しています。夏祭りが7月17,18日、秋祭りが10月17,18日で、夏祭りのみ地車が町内を巡行します。東之町の地車がいつ作られたものか、詳しくは分かっていませんが、彫り物に「相野伊兵衛直之」の銘があり、江戸末期か明治初期に作られたものと考えられています。大正14年刊行の『鷺洲町史』(当時の鷺洲町は現在の福島区と北区大淀の辺り)によれば、当時の夏祭りは7月28日、秋祭りは今と同じ10月18日に行われていたようです。また大正13年に神社の本殿や社務所、地車庫を建て替えたとも書かれていますが、地車そのものについては記載がなく、詳しいことは分かりません。

大阪市内の地車祭りは秋よりも夏が盛大です。これは多分に台風除けや疫病退散を祈願するもので、淀川の洪水に度々悩まされてきた地域の特性と考えられます。神社の裏の公園に高さ3mを超える大きな石碑がありますが、これは明治41年に今の淀川が開削された際の記念碑で、「昔は泥海に泣いたが今は春風に酔う」と、先人の苦労と喜びが刻まれています。

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疏河紀恩之碑(そかきおんのひ)

『福島区史』より

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阪神国道より海老江新家塚本を望む

​『鷺洲町史』より

余談ですが、上の写真は大正時代に淀川を南から撮影したものです。淀川大橋はまだ架かっておらず、すぐ下流(左)に西成大橋(幅5.5m)が見えます。国道2号線は、阪神電車を通すべく中央部が整地されています。今では阪神電車は国道上ではなく、もっと下流の専用の鉄橋上を走っています。

一番上の古い地図にもあるように、淀川は昔は大きく蛇行していて、海老江付近では北から南に流れていました。当時は海老江の北に海老江新家(現在の西淀川区花川)、その北に塚本があり、陸続きでした。海老江新家にあった鼻川神社は八坂神社の分祀でしたが、明治41年に新淀川が東西に開削される際に河川敷になってしまうとのことで現在の場所に遷されました。西成大橋の北側の親柱(石柱)がこの鼻川神社の境内にあり、南側の親柱は八坂神社の境内にあります。

写真には牛車も写っていますが、陸上の物流は牛車で、辺り一面は田畑と木造住宅だった明治の末に、新淀川という、幅800mもの巨大な放水路を建造した、先人のスケールの大きさというか、熱意と苦労に頭が下がります。地車がいつ作られたのか、先述のとおり詳細は分かっていませんが、地車は今の私達だけではなく、このようなずっと昔の人達も、町の発展と安全を願い、人々の幸せを祈って、巡行されてきました。これから先も次の世代の人達にこの伝統が受け継がれて、続いていってほしいものです。

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